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 日本の社会には至る所に石仏あるいは石碑が奉られている。私たちの関地区にもこれまでに紹介した道祖神や馬頭観音だけでなく、山門をくぐってお寺(威向院)に入っていくと右手の山側に観音堂というほどのものではないが、屋根付きの小さなお堂に三基並んでいる。その左側に二基、それから崖の中腹に石碑が一基倒れている。
 お堂の中には、右側に如意輪観音坐像が奉られている。特徴は右手を頬に当て、右膝を立てて座っている。
 坐像か半跏像であり、立像はほとんど無いと言われている。日本では「如意輪観音菩薩」、「如意輪観世音菩薩」、「大梵深遠観音」などさまざまな呼び方があるが、重要文化財等の指定名称は「如意輪観音」となっている。また「救世菩薩」とも呼ばれる。
 手は二本(二臂)の場合もあれば六本(六臂)の場合もある。本来、如意輪観音は六臂の坐像で、右手の第一手をほおに当て「思惟相」をとり、第二手で胸の前に宝珠を持ち、第三手は下に垂らして数珠を持っている。左第一手が光明山を指の植えに捧げ、第二手に蓮華、第三手は契輪を持っ
ている。如意輪観音というのはわかりやすく言えば、衆生の苦しみを取り除き願いを叶える観音である。
 真ん中に、赤子を抱いた石仏が奉られている。子安地蔵ではなく、子安観音あるいは子育て観音であり、如意輪観音がしっかりと赤子を抱いている。
 この如意輪観音坐像の目的はわかりやすい。赤子を抱いているところを見ると、安産を祈ったり、子どもの成長を願ったり、あるいは水子の供養であったり、村人の子どもに対する様々な願いが込められていると思われる。子どもが無事に生まれて成長していくと言うことが当たり前になったのは高度経済成長以後のことであって、つい最近の出来事である。最近は1000人の子どもが誕生し五歳までに亡くなってしまう確立は1%にも満たない。ほとんどの子どもが育っていく。
 左側の山岳信仰の石碑は最近になって、子安講などとは関係なく無造作に並べられたのではないかと誤解してしまう。
 石碑には、次のように刻まれている。
月山、湯殿山、羽黒山と並ぶ。これは出羽三山信仰の石碑として奉納されたもの
である。
 この石碑の右側面には「明和二乙酉九月」と書かれている。九月に続けて「吉日」と刻まれているはずだが不明である。明和二年は西暦1765年のことである。このころに江戸時代の田沼意次の時代であり、印旛沼や手が沼の干拓が行われている。「乙酉(きのととり)」は、十干十二支を組み合わせてつくった六十年分の干支である。石碑には「明和二年」と表記してもわかるのだが、一般に「明和二乙酉年」と表記されている。
 ここで重要なことは山岳信仰と観音信仰がどこで結びついているのかということである。

 この伝統(古代山岳信仰では弥勒信仰が中心をなしていた)は修験道から放浪の聖たちの如意輪観音信仰に変化して、江戸時代に供養物としてさかんに造立されるようになった。
                                             (『石の宗教』著者 五(ご)来(らい) 重(しげる))

 図式化すると、「山岳信仰 → 弥勒信仰 → 如意輪観音信仰」ということになる。これでは何もわからないに等しい。
 弥勒信仰とは、死後、弥勒の住む世界に往生したいという信仰ともう一つは仏滅後に弥勒によって一般大衆が救われるというふたつの信仰によって成り立っている。こういう信仰が山岳信仰の中心に位置していたというのだ。こういう信仰はもっと簡単に言えば、貧しく苦しい生活を強いられ、死と紙一重の世界を生きている民衆の切実な願いがつくりだした。それが放浪の僧たちによって如意輪観音信仰として広められた。
 そこには一般大衆の貧しさがひそんでいる。生まれてくるのもままならない、生きていくのもままならない、ましてや赤子はなおさらだった。弥勒信仰は中世の飢饉の頃に流行っというのも理解できる。終末思想のような世界が藁をもすがる信仰を生み出した。
 七歳前は神のこと言われた時代は幸いなことに過去の出来事になっている。
 そのお堂の隣に二つの石碑が並んでいる。
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 5月13日日曜日、10時から(有)ヤブタが開発した直播機の試用が実施された。関営農研究会の小林秀行代表が主催した。
 10時前になるとぞろぞろと見学者が集まってきた。関の篤農家といってよいハチベエ(宮崎謹治)やモンゼン(石橋正幸)、若手のホープのケッサ(根本健)、地区で農業を営んでいる七割以上の人たちが集まった。草刈りで忙しい時期であったり、他の用事があったりすることからすれば、よくもこんなに集まったものだと感心した。
 「こらよ、うまぐいけば、種まきやんなくていいんだがらいがあべや」
 とハチベエが言う。その通りだ。
 ニシ(小林秀行)が仕事上で知り合った藪田社長の本社は兵庫県尼崎市にある。(有)ヤブタは常用の田植え機械に後付けする「直播用後付ドロップシーダーユニットDSーR」を開発した。その種子に発芽促進のために酸素発生剤や鳥害対策として鉄粉をコーティングしてから播く。
《直播機は35万円だ?》
 気になるのは価格である。まずこの後付の直播機が定価が35万円である。取り付けるとは言っても現在の苗を植えるという田植え方法を止めるのであれば問題はないが、新たに乗用の田植機を手に入れるとしたら高額ではないかという心配がある。
 「あの乗用の田植機は農機具屋から5000円で買ったものですよ」
 と藪田社長が言う。これは驚きだ。それでは種子はどの程度必要なのか。1反歩(十アール)につき約1キロ播く。発芽促進のために酸素発生剤や鳥害対策のために鉄粉をコーティングする。今回は発芽促進用の酸素発生剤をコーティングした種子を播いた。その費用が農協に依頼すると一反歩につき8000円、自分
でコーティングすると3000円だという。
《安くて楽になればいい?》
 みんなが同じことを考えている。高くて大変では話にならない。
 《費用が安くて仕事が楽ならばいうことはない》
 ところが、実際に動かしてみるとなかなかうまくいかない。種子が落ちるところが詰まってしまう。
 「いつも使っている機械を持ってくれば、いがったべや」
 とデエ(高橋清行)が言う。
 「本社が兵庫県だから、兵庫県にあるんですよ」
 社長が残念そうに言う。しかし、そこは機械屋だ。2回、3回と手直しするうちに田んぼの癖や機械の癖をうまくつかんだ。種子を落とす管を四センチほど切り落とすとうまく落ちていく。運転主役のニシも次第になれていく。うまいものだ。
《反収はどの程度か?》
 それでは反収はどのくらいだったのか。農業を営むものであれば、誰もが気になる疑問である。
 昨年、実際に開発し試用した田んぼの反収は五二〇キログラムだった。
八俵半と少しというところである。直播ということからすれば、十分な収穫だったのではないだろうか。
 もう一つ、気になることがある。
《収穫時期は遅くなるのか?》
 だれかが「収穫時期は遅ぐなっぺえや」と心配する。
 昨年実際に直播機を使用した実例からみると、5月30日に播種した稲が9月28日に刈り取られた。生育期間はさほど変わらない。ただし、直播の場合は、水温が20度以上でなければならないから四月中旬に播くことはできない。やはりゴールデンウイーク過ぎころになるだろう。そうなると早稲主体になる可能性が高い。そこは一つの課題である。
 心配したら切りがない。ほんの少しでも経費を削減し、ほんのわずかでも労働量の省略化に役立つことが
地域の農業を維持していくことに役立っていくことだろう。
《馬頭観音》に集う古里 村で生きる其の27 

 馬頭観音は道祖神と同じように各地域に祭られている。
 今では農耕はトラクターで行うが、ついこの間まで、馬や牛が農耕の主流であった。運搬や交通手段も牛馬が中心であった。当然、農民は馬の無病息災を願い、馬が亡くなったときにはその供養もした。そこから馬頭観音信仰が広まっていった。もうひとつ、東北地方に残るオシラサマの民間信仰も馬頭観音信仰のひとつとされている。この点については、最後に言及したい。
 馬頭観音は一般に六観音の一つとされている。六観音とは、密教系の現世利益的な観音信仰から生まれたものである。真言宗では,聖観音・千手観音・十一面観音・馬頭観音・如意輪観音・准胝(じゆんてい)観音を六観音といい、天台宗では准胝観音のかわりに不空(ふくう)羂(けん)索(さく)観音を六観音のひとつとししている。これらを合わせて七観音ともいう。
 もともと、ヒンズー教のビシュヌ神が馬に化身して、悪魔に奪われたヴェーダというインド最古の聖典を取り返したというインド神話が起源だとされている。別の説もあるが、ここから馬が一切の悪霊や煩悩から民衆を救済するということになった。この点では一致している。我が国には奈良時代に伝わってきたといわれる。
 関地区には、馬頭観音が二つ祭られている。
 前崎地区のチョイモ(小貫庄一)の前の道から赤道に入っていく。そこを登っていくと目の前がさっと開ける。右側にニア(飯田泰一)の畑があり、その外れに馬頭観音がある。花が飾られているところを見ると誰かが今でもお参りをしている。
 右側の石碑には一面二臂の馬頭観音が彫られ合掌している。。左側に「惣村中」と書かれている。石像からは判別できないが合掌をしているように見えるが親指、中指、小指を立てて、人差し指と薬指を曲げて両方の掌を合わせる「馬口印(まこういん)
(「馬頭印」」ともいう)、という印相を結んでいる。これが馬頭観音の特徴である。一面二臂とは、一つの顔に二本の腕という意味である。馬頭観音によっては、一面四臂、三面二臂、三面六臂、四面八臂の像容もある。
 「馬頭明王」と呼ばれることもあるように、顔は一般には悪霊をやっつける憤怒の顔をしているというがニヤの畑のそばにある馬頭観音像の顔は半分欠けてはっきりしないがどうも優しい顔をした馬頭観音のような気がする。一面二臂の馬頭観音は優しい顔をした石碑が多いという。右側面に、「文化二丑年十月吉日」(一八〇五年のこと)と刻まれている。真ん中に、石棒のような石が二つ並んでいる。左側の石碑の文字は判読できない。
 関地区にはないが馬に乗っている「馬乗り馬頭観音」も広く分布している。
 もうひとつの馬頭観音はインキャの先の藪の中にある。市道から外れてコンクリート舗装の坂を真っ直ぐに畑の方に向かっていく。最初、五十メートルほど登ったところで一人で探したが見つからなかった。そこで、インキャのおじいさん(小林唯男)に一緒に探してもらった。すると、二、三メートルほど藪の中に入ったところに真ん中からぽっきりと折れた馬頭観音が建っているのを見つけた。
 「あった、あった。馬頭観音と書いてあるよ」  
 「道を広げたときに片したんだよな」
 「脇に小林治右ェ門と書いてあるよ」
 「ナカニシ(小林静夫)だべ」 右側面に、「嘉永六丑二月吉日」(一八五三年のこと)と書かれ、正面には「馬頭観世音」「馬頭観世音」と二つ並べて刻ま(きざま)れている。左側面には「小林治右ェ門」と彫られている。
 インキャのおじいさんはさすがだ。昔からの屋号がすっと浮かんでくる。だから、「治右ェ門」と聞いて、すぐにナカニシ(小林静夫)だとわかった。ナカニシは通称の屋号だ。
 馬頭観音の位置から判断すると、馬頭観音のもう一つの役割を理解することができる。ニヤの畑のそばは見方によっては本郷地区と前崎地区の境界に位置する。もうひとつの馬頭観音は本郷地区の外れに位置し、そこから少し行くと村田地区に向かう道に繋がっている。このことから推測すると、馬頭観音も道祖神と同じように道しるべであったり、交通の安全を祈願したものとも考えられる。
 それでは最後にオシラサマについて言及しよう。
 柳田國男の『遠野物語』にオシラサマの物語が紹介されている。
昔ある處(ところ)に貧しき百姓あり。妻は無くて美しき娘あり。又一匹の馬を養ふ。娘此馬を愛して夜になれば厩舎に行きて寝ね、終に馬と夫婦に成れり。或夜父は此事を知りて、其次の日に娘には知らせず、馬を連れ出して桑の木につり下げて殺したり。その夜娘は馬の居らぬより父に尋ねて此事を知り、驚き悲しみて桑の木の下に行き、死したる馬の首に縋り(すが)て泣きゐたりしを、父は之を悪(にく)みて斧を以て後より馬の首を切り落せしに、忽(たちま)ち娘は其首に乗りたるまま天に昇り去れり。オシラサマと云ふは此時より成りたる神なり。馬をつり下げたる桑の枝にて其神の像を作る。
(『定本 柳田國男集 第四巻』)

 柳田國男はこの話を80歳を超えてなお達者な老女の話として伝えている。おもしろいことにこの老女は「まじなひにて蛇を殺し、木に止まれる鳥を落」とす魔法に長じているという。
 説話にはさらに、天に昇った娘が一人になった父親を心配して、養蚕を教えたとされ、ここから、オシラサマは蚕の神であり、馬の神として祭られている。
 こうした民話のリアルさは現代では失われている。神々と生きた共同体は大きく変わり、高齢社会を生きる新しい共同体を再生していくことが求められている。それができない限り、すべての地域社会が自治能力を失っていく。
 3月18日、シャベルやスコップ、鍬などを手にして、地域の人たちがぞろぞろと8時頃に集まってきた。『澪ざらい』だ。
 ずいぶんと昔の話だが、NHKが『澪つくし』という朝の連続ドラマを放映した。澪というのは、浅瀬の海を船が通過する水路のことである。澪つくしとは「澪標」と表記し、水路を示す杭のことである。ドラマの舞台は銚子で、沢口靖子主演だった。視聴率五十五・三%を記録したというから大変なものだ。
 この辺で「澪」は農業用水路のことである。だから、『澪ざらい』とは農業用水路の掃除のことである。U字フレームが伏せられるまではきれいにするのが大変だった。大半は女性が参加し、鎌で堀の周りの草を刈り取っていく。男性は鋤やシャベルで水路の端をきれいに角張るように削り取っていく。いや、まあ、本当に大変な作業だった。腕が硬くなっていった。
 西口の辺りの堀はヘドロ状態でどぶどぶだった。
 『澪ざらい』になるとナカニシ(小林静夫)がよく言ったものだ。
 「デェ(髙橋清行)、楽になったなあ」
 枡の泥を取り除くのは大変だがU字フレームを伏せてからは全体の作業が楽になった。まず草刈りがなくなった。
 前崎地区の人たちは、後田の方から用水路掃除を開始する。本郷地区の人たちは浅間地区の方から開始する。
 はやばやとハチベエ(宮崎修一)やオーグ(明石公雄)たちが入りの奥から掃除をやってきた。
 「土はあんまりねえなあ」
 「今年は大雨が多かったからなあ」
 水路に水が溜まっていた。市道を超え
たところの枡をログエモン(宮崎幸一)が板を外している。外れれば一気に水が流れはじめた。
 ツヂのシンタクから浅間方向は例年土などで埋まっていることはない。
 まずはツヂのシンタクのところの大きな枡だ。枡から排水路に用水がこぼれないようにがっちりと板で止めてあるのでなかなか外れない。ログエモン(宮崎幸一)とモンゼン(石橋正幸)がスコップで器用に開ける。
 次はインキャのところの枡だ。オーグ、ハチベエ、ヤシギ、デェの四人で持ち上げる。蓋を開ければ、枡は大きいが底は浅くコンクリートになっているので土をあげるのはさほどむずかしくはない。 
 「こんではやれねえかなあ」
 ニシ(小林剛己)が角スコ(四角のスコップ)を手に心配する。すると、ヤシギ(宮崎正己)が答えた。
 「大丈夫だ、あっちに行くとそれが活躍すっから」
 シンタクの辺りから西口にかけては用水路の底が平らになっているからである。
 だれかが、
 「ここはひでえなあ」
 と言う。ケッサの下の用水路だ。
 「でも、今年は楽だ。大雨が降ったりしていたからずいぶん流れている」
 用水路が長い間に沈んだりしているところはどうしても土が溜まりやすい。大変な年には、U字溝いっぱになってしまう。
 兼業農家にとっては貴重な休日に共同作業に参加しなければならないから精神的にも体力的にも厳しい。しかし、こういう共同作業のつながりが災害や高齢社会を乗り切るエネルギーになっていく。


芝燃やし・農業行事
        野焼きが始まると春がやってくる 第31号


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 1月29日、芝燃やしを行った。土手燃やしともいう。
大須賀川の土手の雑草を燃やす行事である。
 野焼きがすべて禁止されていると勘違いをしている役人もいるが、それは法律を知らないだけである。
全国の『廃棄物の処理及び清掃に関する法律』は廃棄物の野焼きを禁止し、違反者は5年以下の懲役若しくは1000万円以下の罰金に処せられる。
しかし、例外規定があり、農業にとってやむを得ない野焼きは認められている。
その他、宗教上の行事などで焼却行為をする場合も認められている。
したがって、『芝燃やし』は例外規定の範囲内であり、認められる。
一応、この法律の内容は知っておいた方がよいと思われる。

 区長は消防署に「芝燃やし」について連絡をしておく。
12時集合で芝燃やしを開始した。
午前中では晴れていてもどこかで毎年火事が発生する。
時には死に至る被害も出る。
 霜などの影響で燃えにくいから、乾燥した頃に始めている。
それでも1月になると、いつもは枯れ草の下から雑草が生き生きと育ち始めて燃えにくい。

 「やっぱり、芝燃やしは12月がいいんじゃないか」

 という人が毎年必ずいる。ところが今年はそんな声は一つも聞かれなかった。
11年ぶりの寒さということでまだまだ雑草がなりを潜めていた。
 関橋から燃やし始める人もいれば、ハチベエの辺りから始める人もいる。
ダムの周辺から燃やし始める人もいる。

以前は、空き缶に灯油を入れて、棒の先に布か何かを巻き付けて火をつけて歩いた。
のんびりとした雰囲気だ。そんなので燃えたのかと思うほどである。
 しかし、最近は、大半の人が灯油のバーナーを持ってくるから、火をつけて歩くのも速くなった。
だから、全員が関橋に集合するより、思い思いの場所から燃やし始めた方が手早いのだ。
 29日、草はきれいに枯れて燃えやすかった。
川の対岸から西風が吹いていたから、バーナーで点けるとぱっと燃え広がる。
こんな日は草の中に入っていくとあっという間に火に囲まれてしまう。
火は風に吹かれて、ぼんぼんと燃え上がると、火そのものが飛んでいく。
一メートルくらい離れていてもほんの少し風下になると熱い。昨年は燃え上がった熱さでメガネの表面が溶けてしまった。
 風邪があって、バーナーで火を点けるからなお速く燃え広がっていく。
ログエモン(宮崎幸一)がどんどん先に進み、あっという間に掘籠との境界まで燃やし尽くした。

 「今日は土手だけで終わりだべ」
誰ともなく言う。
 「そだよなあ、風が吹いていっから危ねえなぁ」

 10年くらい前に隣の毛成地区で山火事になったのも芝燃やしが原因だった。
田んぼの畦道から農道に落ちていた枯れ葉を伝わって山に火が燃え広がったのだ。
 そういえば、大分前のことだが、卵塔場(墓場のこと)の隣を燃やそうとして、
火がどんどんと広がって大騒ぎで消したことがあった。
昔は男手があまり芝燃やしに出なかったから消すのが大変だった。
 地震、雷、火事、親父とはよく言ったものだ。親父の権威や権力は地に落ちたが、地震、雷に次いでやっぱり火の怖さは生きている。
 行事をなくしていくことは村の人々の繋がりを希薄にしていく。
既に大人はどこの家に何人の子どもがいるのかもわからなくなっている。
当然、顔はわからない。お互いに顔のわかる地域を維持したいものだ。


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